よるいろの箱舟
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困ったことに森に入ってからもマラソンだった。半ば嫌がらせのようなトラップだらけの樹海を必死に駆け抜ける。大きめの獣道を通り過ぎて本宅の傍に来た頃には、の表皮には細かな傷ができ、服の端々は切り裂かれていた。前を往ったイルミはそれこそ髪一つ乱していないのだが。 「ま、普通はあんなとこ通らないしね」 「……だろうと思ったけどな」 舌打ちしたいのを堪えて睨むだけにしておくけれど、当の本人はどこ吹く風だ。 ゾルディック家の領内に住まう人間の全てが一流の暗殺者というわけではない。だからこそ、文字通りのまともな道が存在するはずだ。 だというのに、この男は敢えて道なき道へと先導した。本人からしてみればこっちのほうが早く着くとでも思ったのだろうが、からしてみれば嫌がらせ以外の何物でもない。けれどこの男は無自覚に無意識で悪意はないことをは知っている。その分、どこぞの奇術師よりは断然マシだ。 仕方ないなと自分に言い聞かせるようは緩やかに頭を振った。 「まぁ、俺はお前がそういう奴だって知ってるからいいけどね」 「え、なに、ああいうのが好きなの?地雷とかもあったんだけど」 「違う! 空気読めっ!」 今にも歯を剥き出しにして襲いかかりそうなを人形のように感情のない顔が見下ろしてくる。猫のように大きく黒い眼には、ただ深淵が広がるばかりに見えた。 「って時々何考えてるかわかんないよ」 「その台詞、お前とヒソカにだけは言われたくねぇな」 呟かれた言葉に、反射的に口が出る。重苦しい雰囲気にこそならないものの、無表情の男と真顔の男があてもなく視線を交わす。ゾルディック家本宅はすぐそこだ。これからの仕事に一抹の不安を感ぜずにはいられなかった。 戸を開けば出迎えの使用人がずらり…というわけでもなく、番人のように佇む執事が二人きり。その一方にイルミは二言三言告げると、執事は一礼して音もなく屋敷の奥に消えていった。もう一人はというと、来客であるの方など見向きもせずにイルミの言葉にのみ反応を示した。背で組まれた手は、が妙なそぶりを見せた時に刃となって襲ってくるのだろう。よく調教されているものだ―――やはりまともな人間はいないのだと思うとはなおさら憂鬱になった。 「奥様とカルト様はテラスでお待ちです。くれぐれもご自分の言動と行動には気をつけてください」 イルミに強制的にリュックを預けさせられたあと、残された執事は忠告めいたことを口にした。表情に心配する素振りを見せないそれに、はいはいとはおざなりに返事をする。言われなくたってそんなことは、痛いくらいに知っていた。 テラスは月光が柔らかく照らしていた。白を基調に作られたテーブルの上には、湯気の立つ紅茶が注がれたティーカップが二つ。暗くても景観はよく、目にやさしい緑が裾野広がっている。けれどそんなありふれた要素を吹っ飛ばすほどに異質な存在が佇んでいた。 一人は中世風のドレスを着込んだ女性。素顔は幾重にも巻かれた包帯によって見えない。特に目を引くのは、目のあたりに取り付けられた大きなゴーグルだ。ゴーグルの黒い表面の中心にあるカメラが一つ目のように見えて気味が悪い。 二人目は、着物を着た少女。祖国で聞いた怪談話の髪の伸びる人形のようだとは思った。おかっぱ頭に大きな瞳。これで紅をさせばまさしく人形だ。けれど雰囲気こそ違えど、顔のつくりはキルアに似ている気がした。彼女のにやる視線は外の空気同様に冷たいけれど。 ドレスの女性のカメラがを見た。執事の話通りなら、これがキルアたちの母親だ。 「ごきげんよう」 「……こんばんは」 自分もごきげんようと返すべきか迷ったが、結局素のままに返した。女性は特に気に留めず、持っていた洋扇で少女に前に出るよう促した。 「わたくしはキキョウ。この子はカルトちゃんよ」 「です。この度はご用命ありがとうございます」 会釈し、心ばかりの笑みを浮かべる。薄笑みを浮かべるキキョウの一挙一動が布にくるまれた針のようであり、カルトの眼差しはむきだしの薄刃のようだ。歓迎はされていない。いくら鈍い奴でもわかる。イルミでだいぶ慣れた気でいたが、やはりこの家族の世界は異常で、その中に入り込んできた自分の立ち位置こそが異質なのだと痛感させられた。 「早速だけれど、お仕事の話をしましょう。夜更かしは美容の天敵だから、長話はしないつもりで」 キキョウは洋扇を広げて口元を隠した。一言も聞き洩らさないつもりでは気を引き締めた。 「一つは、カルトちゃんに関することよ。だいぶ前にイルミにやってもらったことをこの子にもやってあげるだけ。簡単でしょう?」 「同じことを、ですか」 イルミと初めて会うことになったきっかけ。それは致死量を超えるほどの血液を抜いてなお行動を持続させるという訓練の補助だった。の仕事は死なない程度に致死量を超える量の血を抜くこと。そして血液を検査し、毒やウイルスなどの抗体のチェック。さらには組織をわざと破壊したイルミ自身の血液を体内に戻すなど、まずやってはいけないことをさも当たり前のようにやらされた。 一月もすれば、そのおかげでイルミは耐えられるウイルスや毒のレパートリーが増え、常人よりは血液を失っても逃走などの多少の行動は可能になっていた。当の本人が平然としているので、にも罪悪感はない。 「ええ、そうよ。イルミにやってあげたときよりは幼いけれど、問題はないわ。そうでしょう? カルトちゃん」 「はい、お母様」 「なるほど、了解です。……それで、他にもあるのでしょう?」 「他? 他ですって?」 尋ねると、キキョウはうふふと思い出したように笑いだした。広げた洋扇で口元を覆っているが、わずかに見えた唇からは可笑しさを感じているわけでなく、愉悦を堪え切れずにいる様がありありとくみとれた。その様態に子供じみた狂気を感じて、はひゅっと息を呑む。ひとしきり笑うと、キキョウは落ち着いたようで洋扇をパタリと閉じた。 「あなた、ご存じ? 先日、家出していた息子が帰ってきましたの」 「キルアのこと、ですね。ということは、二つ目の依頼はキルアに関することで?」 うまく口が回らない。圧倒的な存在感に気後れしてしまう。そんなはお構いなしに、キキョウは嬉しそうに頬に手を添えた。 「ええ、ええ、ええ!あの子ったら私のこの顔を刺して出て行ったのですけれど……立派に成長したと思うと泣けてきてしまうわ。あぁ、そんなことはあなたに話してもしょうがないわね。それで、あの子は今地下で反省しているのよ。あなたに頼みたいのは、そのお手伝い」 反省させられているというのが正しいのだろうが、それを言及できるほどに力はない。それよりも今は聞くことに必死だった。それで、と続きを促す。 「基本は、カルトちゃんにやってもらうことと変わりないわ。……ただし、色々と制約をつけさせてもらいますけれど」 キキョウがパチンと指を鳴らせば、見覚えのある執事が歩み寄ってきた。その手にはが預けさせられたはずのリュック。ずいぶんと薄っぺらくなったそれを左手に、そして右手には歪な物体。が持ち込んだ注射器などの医療道具だったものが一塊に潰されたものだった。折れた注射針がそこらから突き出し、折りたたまれた金属製の器具にヒラキにされたゴム管がぐるぐる巻かれている。右手からゆっくりとこぼれ、テラスの硬い床に落ちた。 「……どういうつもりで?」 転がってきたそれを拾い上げることはせず、はなるべく声を荒げぬように努めた。落ち着いているように聞こえるけれど、思ったよりは低い声だった。気にも留めず、キキョウは気だるげに月を仰ぐ。 「ご存じの通り、わたくしたちは有名でしょう? ですから犬畜生のような不躾な輩が髪の毛一本にすら群がってきますわ。……あなたなど、この紅茶一杯程度の価値もない取るに足らない存在ですけれど、だからといって血の一滴ですら持ち帰ることは許しませんし、持ち込まれたものには“何もない”なんておいそれと信じるわけにはいきませんの。心配せずとも道具はこちらで用意していますし、他にも欲しいものがあれば用意しますわ」 「それはそれはっ、お心遣いどーも!」 投げやりぎみに言ってから、営業用の仮面が剥がれてかけてしまったことに焦って口元を押さえるも、時すでに遅し。キキョウは含み笑いをして一つ目のカメラでこちらを見ていた。 「あなたのことはイルミとキルアから聞いてます。使い慣れない口調で喋られるのは聞き苦しいからそのままで構わないわ」 ついにはカルトまでが小馬鹿にするように目を細めて袖で口元を隠している。憎まれ口の一つでも叩いてやりたいのを抑える。羞恥心をかなぐり捨てて、気丈に振る舞った。 「じゃ、お言葉に甘えます。それで、キルアの方には余計に何をさせるんですか? 言っときますがね、俺はあくまで自分の職の範囲内の仕事しかしませんよ」 「あぁ、そんなに身構えないで。大したことではないわ」 ほんとうに、とわざとらしく付け加えるキキョウに耳を疑った。そんなそぶりが見えていても、さも何も問題はないと言わんばかりに笑むキキョウは唇に指をあてて艶やかに告げた。 「これ以上あの子が“おいた”をしないようにしてもらうだけよ」 BACK / NEXT TOP |