よるいろの箱舟





それから一月以上の時が流れ。
 多少の傷は癒えずにいるものの、見えるような顔に回復したは再び闘技場に顔を出すようになっていた。といっても参戦することはそうそうなく、もっぱら客席からドリンク片手に眺めるばかりだ。ヒソカとの一戦で多少名が知れてしまったために、は観客から良い席を譲り受けることが多くなったために、大体がうるさい実況から離れたアリーナ席の最前列に居座っている。
 顔がよろしいだとか、なかなかの兵だとか、そういった好ましい理由だったらともかく、ヒソカに殺されなかったからというすごいけどしょうもないことで人気が出たところではちっとも嬉しくなかった。ファンと名乗って近づく人間も格闘マニアの女性なんて希少種で大半が男、しかもヒソカ戦でが死なない方に賭けて大もうけした博徒が多かったので余計憎らしくもあった。
 200階の闘技場の観客は純粋に戦いを見に来るものと、これまた純粋に賭け事だけを楽しみに来るものの二種類に分かれるらしい。
 今日の試合はそのどちらも入り混じった、超満員の客入りだ。闘士はヒソカとカストロと言う男。カストロはと同じく数少ないヒソカに殺されなかった闘士であり、本人のインタビューも相まってこの一戦はリベンジマッチに仕立てられた。

「冗談言うなよ。俺はまだ死にたくないんだ」

 ここ数日、そんな台詞を何度言う破目になったことか。特に戦闘予定が組まれカストロが宣戦布告めいたインタビューをわざわざ流してくれた日からそれは顕著になった。カストロも戦うのだからもどうだと期待するのも勝手だが、戦う気などさらさらないは一身上の都合で全力でお断りし続けた。
 さすがに試合当日は渋るよりも戦意に満ちたカストロに当然のように惹かれたようで、アリーナに座っていても次は君かと尋ねられることはない。コーラのペットボトルと塩バターポップコーンのラージカップを抱えて悠々と観戦席についていた。




 戦いの舞台である石畳の上では、既にヒソカのパフォーマンスが始まっている。片腕を千切り落とされたヒソカが切断面に手を突っ込んでいる光景を眺めながら、一掴みしたポップコーンを口に運ぶ。
 隣の身分のよろしそうな妙齢の女性が小さく悲鳴を上げたのを聞きながら、ヒソカが腕からトランプのカードを出したのを見た。

「最初から入れてた、のかな?」

 ポップコーンを頬張りながらの呟きはネイティブでも聞き取りが難しいだろう。ましてや超満員の闘技場。の言葉はポップコーンと共に飲み込まれた。
 計算して求めた数字が必ず1になるのは、そういう式を使っているからだ。ヒソカの言葉をそのまま数式にすればどんな数を選んでも答えは1になるのはあっさりとわかるはずだ。けれどそれをさせないのが、ヒソカの狂気じみたパフォーマンスだ。圧倒的なインパクトで当然のことすら気付かせない。パフォマーとしては一流と認めざるを得ないだろう。
 はそんな空気に呑まれていなかった。言葉どおりに計算させようとするヒソカの声を無視してじっと一挙一動だけを観察していたからだ。
 ハンカチで消した千切れた腕は姿を消して天井付近に浮かんでいるように見える。の目では未だぼやけたようにしか見えないので、どういう状態であるかはわからない。ただマジックの一環で消したのか、何れ使うのかはわからないが、カストロが腕の行先に気付いていないことだけはわかった。
 ヒソカの異常性は既にカストロを蝕んでいる。現に、カストロの至る所にヒソカのガムが何本も貼りついていた。ですら全ては見えずとも存在を確認できているのに、カストロには目に見えるものそのままでしか見えていないようだ。忍びよる恐怖と圧倒的な異常性はカストロの目に鉄板でできたレンズの眼鏡をかけてしまったようだ。

「……こりゃ、ダメかなぁ」

 呟いて暫く。案の定、ヒソカの予言通りカストロは倒れてしまう。はカップにポップコーンを半分以上残したまま観覧席から立ち上がった。
 余韻から席から立ち上がれない観客たちを置き去りに、気の抜けかけたコーラをボトルの底が見えるまで一気に飲み下した。
 炭酸で膨れる腹をさすりながらアリーナの出口へ向かう途中、興奮しきったような声が通り過ぎようとした傍の客席から投げかけられる。

「なあ!カストロが死んじまった以上、次はお前しかいない、だろ?!いつ戦うんだ?今日の負け分取り返させてくれよお、なあ」

 汗ばんだ男の手には小さな酒瓶と、カストロに賭けたチケットが湿って折れていた。彼がカストロにいくら賭けていたなんてのかはには興味なんてものはなく。気付けば空っぽになっていたプラスチックのボトルが手のひらサイズに丸まっていた。

「勘弁してくれ。ハンサムな彼とは違って、俺はダンスは苦手なんだ」

 酒臭いゴミ箱にプラスチックボールを投げ入れた。ボールの大きさは大したことはないがどうやらキャップが気管の方に転がったようで男は呑んだものを吐き出しそうな勢いで咽出す。被害を被る前には素知らぬ顔でその場を後にした。




 軽く憂さ晴らしをしたところで、二ブロック向こうの列に見知った顔を見つけた。既に勝者は去り、敗者の亡骸が搬送されていくだけのリングを真剣な目つきで見ている。もう来てたのか、と思ったが彼らならきっと自分よりも早く登れるだろうからおかしくはないだろうとは考え直した。もうひとりの姿が見えないが、きっと同じ階層にいることだろう。胸こそ張れはしないが、余裕が出来てきた今なら会ってみてもいいと思えた。
 東8、と最寄りの出口だけ書いたメールを送信した。いつ気がつくかは分からないが、一先ず余ったポップコーンを食べてしまおう。案内板の下に陣取って、壁にもたれながらカップに手を突っ込んだ。








「なんでここにいんの」
「久しぶりだなー、元気してたか?」
「ていうかなんで念使えてんの?」
「あれ、ゴンはどうした? お前ら一緒にいんじゃねえの? あ、ポップコーン食う? 食いかけだけど」
「オレの! 質問に! 答えろよ!」
「うるせぇなぁ…ちったぁ周りの迷惑も考えろよ、な?」
「もがっ?!」

 喚くキルアの口にポップコーンをたっぷり詰めて無理やり黙らせた。出口付近は混み合うからと、闘志専用のエレベーター近くまで引っ張っていく。観るばかりの一般人は近寄りがたいようで、そこに人が多くいることはそうそうない。しかしヒソカ戦で興奮した観客たちはあちこちで話に花を咲かせている上に、に声をかけるものも少なくないので結局の部屋まで来ることになってしまった。

「ようこそ、俺の部屋へ」
「で?」
「で、って?」
「なんでここにいんのかってことだよ! 仕事だから家帰るつってたじゃん」
「あー……それなぁ……」

 言いたくないことをあれこれ伏せて掻い摘んで説明すれば、キルアはポップコーンを貪りながらもの言いたげな目で見てきた。情けねえと一言だけぼやかれて、反論の余地のないは頬を掻いて誤魔化した。
 一方キルアの方は、大体予想通りの道程だった。ただヒソカの試練と、ゴンの気が逸って試合に出てしまい大怪我をしたことだけがイレギュラーだった。現在は部屋で大人しくしているらしい。何も知らずに洗礼を受けるよりはマシか、と忠告をしたヒソカに感謝しかけたが、何か引っかかるものを感じた。ヒソカ、念、試練、洗礼、実験。思い付く限りのワードを挙げていく。

「ん……? ……、……あぁ、そういうことか。実験って」
「は? 実験ってなんのこと?」
「いや、こっちの話。お前らには関係な……くもないからちょっと俺に感謝してくれ」
「はぁ? 何だそれ」

 なんてことはない。が念に気づくかどうかの実験だと思っていたのが、ヒソカ自ら洗礼を施したらどうなるかの人体実験だったというだけだ。
 は壊れはしなかったが、骨を折って寝込む羽目になった。そんな結果を鑑みて、ヒソカは洗礼ではなく試練を与えて念の存在を二人の子供に知らせたということだ。

「いーや、ちょっとどころじゃねえな。晩飯おごれよ三日ぐらい」
「意味わかんねーし、ってか年下にタカるなよ」

 思い返してきたら余計にムカムカしてきた。あの男が嘘つきだということは知っていたが、ここまで踏み台のような扱いをされるのは久々だった。喜ぶべきはの犠牲がヒソカでなく子供らの糧になったという事実だけだ。

「俺の犠牲を! もっと尊べよ! あんの嘘つきやろう、今度会ったらなぁ!」
「会ったら?」
「……殺…いや、殴……うーん、呪う?」
「……うわっ、ヘボッ」

 にはそんなことをできる度胸も実力もない。そんなことはキルアに言われるまでもなく自分がよく知っていた。確かにヒソカのおかげでは念を知ることが出来たのだが、それですべてを許せるほどの度量もなかった。

「ゾルディックに依頼出したら幾らでやれっかな」
「それ、マジで聞いてる?」
「参考までに」
「見積もりだしたところでじゃ払えないだろ」
「だよなぁ……」

 力も金もないに今出来るのは、空になったポップコーンのカップをひしゃげさせることだけだった。








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